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2004.11.22

創発民主制

ちょっと間が空いてしまったが、公文俊平『情報社会学序説』の一項「イトーの唱える創発民主制」を基に少し考えてみたい。

ジョイ・イトー氏が「Emergent Democracy」を著し、公文先生が日本語訳(「創発民主制(PDF)」)したのは2003年春、もう2年近く前のことだ。イトー氏はGLOCOMを訪問して力の込もったプレゼンをし、研究員の関心も高かったと記憶している。だが、正直言って僕はその時、彼の議論の重要性をよく分かっていなかった。もちろんブログの存在は知っていたが、日本の2ちゃんねるや日記サイトの方に関心が向いていたので、トラックバックやRSSの意義などについては理解していなかったと思う。また、Wikiを使ったことはあったが入力規則が面倒くさいと思って過小評価していた。

しかし、いま改めて「創発民主制」を読んでみると、古びてしまった話題はほとんど無くて、いま僕が関心を強めている情報技術と政治の関係についての論点が、いくつもここに著されていることに気づく。

「創発民主制」のポイントは、ネット上での協働作業による知識生産だ。「情報社会学序説」では、こんなことが書かれている。

この論文のユニークなところは、ジョイが仲間たちとブログ上で行った侃々諤々の議論を、彼がまとめていることだ。つまりそれはインターネットを使った一種の共働著作なのである。ジョイにいわせると、この論文は、いまでこそ筆者がジョイの個人名になっているが、いずれはもっとさまざまな人びとの手がはいって、さらに大きく書き換えられていくだろう。そうなると、「それはボクが書いた論文ではなくて、ボクが着手(initiate)した論文と呼びたい」と彼はいう。「情報社会学序説」
ブログの技術が、読者からのフィードバックを可能にしたり、グループが共有するウェブページをメンバーが用意に作成・編集できるようにしたり、ブログ相互間のリンク貼りや他人が自分に対して張っているリンクの発見や分析を支援したりする、各種の付加的なツールと併用されるようになった結果、突如として自己組織的に急速に普及し始めたことに注目している。「情報社会学序説」
さまざまな道具の発展によって、共働で知識生産をする人々の間に何らかの秩序や現象が「創発」してくる、という認識は、この論文が書かれた後の日本でも広がってきている。木村剛氏のブログのように双方向性が高いブログが盛上がったことや、「電車男」のような作品や韓国のOhmyNewsのような強い影響力が生まれたこと、あるいは著作物を共有財として公開し他者が手を加えて新たな著作物にしていくクリエイティブコモンズなどは、その例である。

そしてイトー達は、知的財産保護の行き過ぎによるイノベーションの逼塞や、政府やマスメディアによるプライバシー侵害など、現在の民主制は腐敗や制度疲労に陥っていると考え、新たな共働著作活動が、新しい民主制の創発に結びつくと説明している(だから「創発民主制」)。

ジョイたちが持っている問題意識は次のようなものだ。(略)これらの技術を賢明かつ効果的に利用するならば「権力が企業や政府に集中した結果として腐敗してしまった民主制が、本来もっていた基本的属性を支援するような」新しい政治モデルの構築が可能になるだろう。つまり、今日の代表民主制とは異なる新しい民主制―「直接民主制」―を「創発」させることが可能になるだろうというのである。「情報社会学序説」
一枚岩的なメディアとそれが行っているますます単純化された世界描写は、合意の達成に必要とされるアイデア間の競争を提供できない。創発民主制は、極度に複雑化した世界でわれわれが直面している諸問題の多くを、国家的規模でもグローバルな規模でも解決しうる可能性を秘めている。「創発民主制」

共働著作から何がしかの秩序が創発することは分かる。そしてそれはとても興味深いことだ。だが、それと新しい「民主制」の創発を結びつけるところで、議論が少し飛躍しているというか、分かりにくい印象を受けないだろうか。2年前から僕はそう思っている。

具体的に現在の民主制がどう変わるのか、ということについてはいくつかのヒントが紹介されている。「公衆が体制側をモニターして新しいレベルの透明性を提供するスーベイランス(下からの監視)」や「声なき世論を調査・増幅し、在来の間接民主制的な手法をバイパスして政治家に直接届ける活動」、また「小集団での討議と科学的なランダム・サンプリングと結合することで、参加者の理解の質と深さを高め、母集団全体の中での現実の意見分布を反映しようとする「審議型世論調査」」などだ。

だがこれでもまだ僕には、あたらしい民主制度の像を認識することは難しい。この説明ではまだ、せいぜい政府やマスメディアのあり方に一石を投じる程度のインパクトしか与えていない気がするのだ。つまりイトーの議論は協働や創発に着目した点できわめて新しく刺激的だけれども、「この論文で革命を起す」と言った割には何が生まれてくるのかという説明が足りない。新たな民主制の原則や、大まかな全体像が提示されるのかと期待して読むとちょっとがっかりしてしまう。

それから彼らの議論には、討論民主主義というか、理性への期待のような色眼鏡が強くかかっているように見える。自然発生的で自己組織的な創発現象を、穏当で理想的な方向へ結びつけようとしている印象を受けるのだ。

じゃあ、民主制度はどうなるのか。ここから先は僕自身の研究課題でもあるから、自分で考えていこうと思うが、石橋さんが書いた短編小説「政策系短編未来小説 昔はよかった」が、政策の創発について興味深い未来像を示していてヒントになると思っている(この小説については機会を改めて書きたい)。

公文先生の「創発民主制」に対する評価は次のようなものだ。

こうした積極的な行為は、まことにすばらしいと思う。しかし、上にあげたような各種の積極的な行為、とりわけ「選挙された代表に影響をおよぼすという在来的な手法をバイパス」した行為は、直接民主主義的ではあるかもしれないが、既存の代表民主制にとって代わる新しい政治システムとしての「直接民主制」の例とまでいえるのかと考えると、いささか首を傾げざるをえない。「情報社会学序説」

それは、共働著作による知的生産活動をどのように行うかは、企業の生産行為や商行為と同じように、政府の指示を受けて行う性質のものではなく、自分の責任で自由に決定し実行する行為だからだ、という。公文先生がこの本の後の方で述べていくような、国家による勢力争い(威のゲーム)や企業による商業活動(富のゲーム)と並べて知的な人々による評判や説得力の獲得争い(智のゲーム)が起きているという前提に立つと、イトーの議論は、民主政治のあり方というよりも、智のゲームの仕方についてのイノベーションや、ゲームを行う場のルール形成に示唆を与えたと評価した方がいいと思う。

なお、この項は次のように締めくくられている。

これからの情報かは、いってみれば「智民革命」とでも呼ぶことができる政治変革の過程を通じて、もはや「民主主義」という観念そのものを超えるような新しい分散的な社会運営システムを、成熟局面に達した近代社会にもたらすことになるのではあるまいか。そうだとすれば、今日のわれわれが直面している社会変化は、「創発民主制」というよりは「創発革命」と呼ぶことがはるかにふさわしい、広くかつ深いものになると期待してよいのかもしれない。「情報社会学序説」
大胆というかワクワクするような文章である。

※最近あるところで、「『創発』という言葉に過大な期待をしている人が多い」という批判を聞いた。東浩紀さんも「波状言論」で「「スマートモブズ」や創発民主主義への信仰」があると指摘して、「そのような欲望の地平を作り出したのは何なのか、きちんと自己相対化して言説化しておくこと」が必要だということを述べていた。この指摘は胸に留めておきたいと思う。