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2014年1月

2014.01.21

僕達の責任

境治「世代交代がないと、進化できない。」(ハフィントン・ポスト)という記事を読んだ。

「日本が変わりかけたけど変わらなかった。その責任を、さっきこってり批判的なことを書いた老人ひとりのせいにはできないだろう。そうだ。日本社会が変われなかったのは、ぼくたちひとりひとりが変われなかったからだ。昭和にしがみついたのは他ならぬぼくたちなのだろう。」

あと23年経つと僕は60歳になる。その時、日本の人口は目に見えて減少し、高齢者ばかりで今よりももっと社会の運営が難しい状況になっていると思う。政府が財政破綻をしてるかもしれないし、そのせいで災害からの復興がうまくできず苦しんでいるかもしれない。外国人労働力に頼ったはいいけれど社会対立が激化し不安な社会になっているかもしれない。

そんなひどい状態になった時に、若者たちから「こうなることが薄々分かっていたのにどうして避けられなかったのか」と責められる、つまりその責任を負うのは僕たちの世代だ。僕だ。どうして頭の硬い上の世代を押しのけてでも真剣に少子化対策に取り組まなかったのか、どうして本質的な構造改革を避けて昭和の価値観のままでいたのか…と問われるだろう。

そこで居直って「俺たちの時代はまだ世界3位の経済大国だった」とか「日本文化が世界から注目されていた」とか言ったりしつつ逃げ切りを図ろうとするのだろうか。嫌だ嫌だ。

だから、都知事選候補が高齢者ばかりで良くないね、とか、なかなか日本の大企業の体質は変えられないね、などと言いながら高齢世代を批判する「だけ」のポジションに落ち着いてしまう30-40代の態度は、無責任なのではないか、と思ったりする。

僕はときどき、シニア世代の「偉い人」の放言に噛みついたり、彼らに楯突くような意見をしたりすることがある。それはこの元記事の筆者みたいな考え方を持っているからだと言える。そういうことに改めて気づいた。

※写真はロダン作「地獄の門」

2014.01.17

「シャツをはだけて国民の関心を引こうとする政治家を見つけたら、即刻パンツも引きずり下ろす必要がある」

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フランスのオランド大統領の女性問題の解説記事が面白かった。

 「フランス大統領の「夜這い」はプライバシーにあらず」
 国末憲人
 http://www.fsight.jp/23729

隠し子について質問されて「ええ、いますよ。それが何か?」と答えたミッテラン大統領の時とスタンスは似ていて、「プライベートな問題はプライベートな空間で解決するのが私のモットー」と答えたという。

ところが筆者は大統領のプライベートが人事などと結びついていることを例証し、政治家のプライベートなことを報道する必要を述べている。

たとえばサルコジ大統領は、「「妻に逃げられた」など都合の悪い私生活は隠す一方で、都合のいい私生活は積極的に表に出して人気や同情を集めようとした」んだそうだ。確かにサルコジ大統領は、政策的な実績よりも彼の人生とかスタイルの方が印象に残っている気がする。

そうした政治家の振る舞いに対する筆者のコメントが面白い。「政治家にそんなわがままを認めてはならない。シャツをはだけて国民の関心を引こうとする政治家を見つけたら、即刻パンツも引きずり下ろす必要がある」だって。

米国のオバマ大統領をソーシャルメディアでフォローしていても、夫人とともに写った好印象な写真がよく流れてくる。それはそれで受け取りつつも、その情報が提供された意図を考えたり、そこに流れてこないものがあるという意識を持ったりすることは必要だろうなと改めて思いました。

2014.01.12

レポート:「オランダという国での『自己決定』を巡る議論」

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GLOCOM社会イノベーションラボのイベントとして、「オランダという国での『自己決定』を巡る議論」というタイトルの講演会を企画・開催した。

詳細はこちら(https://www.facebook.com/events/1431979730366406/)。

タイトルで明示していないが、この講演のテーマは、オランダにおける安楽死をめぐる制度と実態だ。はじめに講師のジャネット・あかね シャボットさんは「頭のなかのスクリーンをすべて除去してください」と述べた。先入観や価値判断を取り払い、オランダでどのような議論があってどのような制度が作られているのか、実際にどのようなことが起きているのかを静かにうかがった。

オランダの安楽死は「本人」の「任意」かつ「熟慮の末」の「要請にもとづいて」「医師」が実施する「医療行為」だ。もちろん保険も適用される。ただし実施にあたってはいくつかの類型があるし、いずれにしろさまざまな要件を満たす必要がある。そうした条件のひとつひとつに長い長い議論があったそうで、これは相当具体的に考えぬかれた仕組みだということがわかった。

制度だけでない。実際に安楽死を行うと決めるまでのプロセスもきめ細かく丁寧に進んでいく。安楽死を望む人は、家族や医師などと何度も何度も相談を重ねる。いわゆるインフォームドコンセントだが、「情報を提供して自己決定させる」といったこの言葉から想像するものよりもずっと丁寧で、ああでもないこうでもないと迷い、考えていく、双方向の対話プロセスだということがよくわかった。そして、周囲も納得のうえで自己決定をするのでその意思は尊重される。実際、オランダの安楽死の実態を調査した米国の人類学者は「生命終結行為は全体のごく一部であり、これは対話のプロセスである。それが緩和ケアになっている」と評価したそうだ。そして、安楽死を選んだ人のほぼすべてが自分にとって「大切な人」に囲まれ、自宅で家庭医によって安楽死しているという。

こうしてオランダでは安楽死が合法化されているが、ただしこのプロセスは必ず「検証可能」でなくてはいけないそうだ。こっそりやることは許されない。透明性がなくてはいけないのだ。こうした透明性とディスカッションはオランダの伝統らしい。

シャボットさんの話をまとめると、オランダで安楽死の要請をする人は自殺願望者ではない。むしろ、自分の生はよりよいものでありたい(≒尊厳のあるものでありたい)と考える人たちである。言い換えると安楽死は「よく生きる」ことを追求した結果の結論のひとつだということだ。死は自分と周囲との関係の中にあり、しかしたとえその決定が部外者から見て「ベスト」なものでなくても、最終的には本人の決定を尊重する。シャボットさんは、「自己決定と隣人愛」ということをキーワードとして述べていた。

まだ僕は「死」「安楽死」ということをほとんど身近には考えられない。しかし、これを家族や周囲の人々との関係の延長の中にある自己決定なのだと捉えると、それはつまり今の「生」とつながっていることなんだといえると思った。